2018年9月15日土曜日

水野南北覚え書・南北堂剳記について

小著である『江戸時代の小食主義・水野南北 修身録 を読み解く』には、巻末に「関係書誌」の一項を設け、南北の著作全般について、およそ6000字の解説を付けておいたのだが、『南北堂剳記』(なんぼくどうさっき)についてはまったく触れることをしなかった。


『江戸時代の小食主義・水野南北 修身録 を読み解く』

http://kyoto1001.blogspot.jp/2018/01/blog-post.html

このことについてなど、お訊ねや問合せがあったので、『南北堂剳記』やその他の書目について、しばらく補足してゆきたい。おそらくは月に数度ほどの更新になりますが、参考にしていただければ幸いに思います。

さて、ともかく『南北堂剳記』は在ることになっている。wikiにも載っている。おそらくそれをご覧になった方が問い合わせたのだろう、図書館のレファレンスデータも残っている。

レファレンス協同データベース
『南北堂剳記』の原文と翻訳の所蔵館が知りたい
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000019054

その問合せの結果は
「『南北堂剳記』は確認できず。」
である。

しかしわたしの知る限り、『南北堂剳記』についての情報は、以下の数行がある限りである。
鍵屋熊太、のち天下第一の相師(観相家)と謳われた水野南北が、晩年、みずからの数奇な半生を述懐した回想録(メモワール)『南北堂剳記』によると、五歳のころ・・・・・・
これはある小説の冒頭、本文第一ページの書き出しである。著者は神坂次郎、タイトルは『だまってすわれば -観相師・水野南北一代-』。
(初出は1987年週刊新潮への連載。引用は1991年刊の新潮文庫から)

これはいってみれば、おとぎ話では「むかしむかしあるところに・・・」が最初にあるのと同じで、神坂は小説のために架空の書物を創作し、マクラに「南北堂剳記によると・・・」と置いてから、小説水野南北伝をはじめたのである。

ではなぜこの『南北堂剳記』も架空=フィクションだと言えるのか。

この『だまってすわれば』では、他の実在の南北の著作も、むろんのこと登場する。主著といってもよい『南北相法』の正編続編、『修身録』はもちろん、発刊部数の少なかった『南北相法早引』にも触れている。井上正鐵の記録にも目を配っている。

扱いは的確で、想像力を働かせ、フィクションも交えてだが、神坂はそれぞれの成立事情についても十分考察しているといってよい。刊行年などについても、その語りの中などに的確に織り込んで話を進めている。お世辞ではなく、小説家の力技おそるべしだと思う。

ところが『南北堂剳記』に関しては冒頭に一度出てくる限りなのである。他になんの情報もない。この晩年のメモワール=『南北堂剳記』が本当なら、南北がどうしてそのメモワールを書く気になったのかを、神坂はかならずや想像、そして追求して、それを小説の骨格にしていたはずだ。しかし神坂はそうはしなかった。

そうはいっても『南北堂剳記』という存在の想定は、小説家神坂にとっては欠くべからざるものであって、そのためみずから生みだしたものなのである。そして小説というフィクションの場の冒頭に、ただ一度だけあらわれてくれればよかったのである。

著作権の関係もあって、近年では小説の場合も、参考書に関し、巻末に数頁を設けて記しておくのが通例だが、神坂の『だまってすわれば』は、本文の中に書誌情報がある程度は示されているので、そんな興が醒めるような余計な附録はつけていない。

だがもし巻末書誌があったのなら、他の書目はすべて上がっても『南北堂剳記』はそこにはなかったはずで、それがこの『南北堂剳記』というものの架空性のヒントになっていたはずだ。いってみれば、これが『南北堂剳記』ひとり歩きのはじまりだった。

しかし神坂のこの小説は、決して悪いものではなかった。『だまってすわれば』をめぐっては、次回の稿で続きを述べたいと思う。

2018年9月15日 若井朝彦
水野南北覚え書・南北堂剳記について

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