2018年9月22日土曜日

水野南北覚え書・神坂次郎の小説『だまってすわれば - 観相師・水野南北一代 -』について

以下は、先週の稿

水野南北覚え書・南北堂剳記について

に続いて、この稿では神坂次郎の小説
『だまってすわれば - 観相師・水野南北一代 -』
について。

この『だまってすわれば』は、ほとんどがフィクションでできてはいるのだが、水野南北の思想に接近するのには、立派に役立つ小説であるといえるだろう。じつはwikipediaの「水野南北」の項に(この小説の)的確な要約というべきものがあるので、まずそれを引用して示したい。(2018年9月21日現在)

水野南北は、大坂阿波座(大阪市西区)に生まれたが、幼くして両親を亡くし鍛冶屋をしていた叔父「弥助」夫婦に育てられる。子供の頃(10歳)より盗み酒を覚え、酒代に窮して叔父の稼ぎ集めた虎の子を持ち逃げし、天満(大阪市北区)で酒と博打と喧嘩に明け暮れ家業の鍛冶職鍵錠前造りから「鍵屋熊太」と呼ばれる無頼の徒となった。

刃傷沙汰を繰り返し、 18歳頃、酒代欲しさに悪事をはたらき、天満の牢屋に入れられる。牢内で人相と人の運命に相関関係があることに気づき観相に関心を持つようになる。

出牢後、人相見から顔に死相が出ていると言われ、運命転換のため、慈雲山瑞竜寺(鉄眼寺)に出家を願い出たところ、「半年間、麦と大豆だけの食事が続けられたら弟子にする」といわれ、堂島川で川仲仕をしながら言われた通り麦と大豆だけの食事を続けたところ、顔から死相が消えたばかりでなく、運勢が改善してしまった。

こうした体験から観相学に興味を持ち、髪結い床の見習い3年、湯屋の三助業3年、火葬場の隠亡焼き3年と徹底した観相の研究を実施して観相学の蘊奥を究め南北相法を完成し、節食が運勢を改善することを唱えた。
この中の

・観相学の蘊奥を究め南北相法を完成し、節食が運勢を改善することを唱えた。
は、南北の著書からも確認できる史実で、よく知られていることであるが、

・観相学に興味を持ち、髪結い床の見習い3年、湯屋の三助業3年、火葬場の隠亡焼き3年と徹底した観相の研究
は、『江戸時代の小食主義』の中で、あらためてたしかめておいたとおり、昭和初期までにだれかが作ったフィクション。さらに

・天満で酒と博打と喧嘩に明け暮れ、刃傷沙汰を繰り返し、18歳頃、酒代欲しさに悪事をはたらき、天満の牢屋に入れられる。牢内で人相と人の運命に相関関係があることに気づき観相に関心を持つようになる。出牢後、人相見から顔に死相が出ていると言われ、寺に出家を願い出たところ、「半年間、麦と大豆だけの食事が続けられたら弟子にする」といわれ、堂島川で川仲仕をしながら言われた通り麦と大豆だけの食事を続けたところ、顔から死相が消えたばかりでなく、運勢が改善してしまった。
は、1960年ごろまでに成立したフィクションであり、

・幼くして両親を亡くし鍛冶屋をしていた叔父「弥助」夫婦に育てられる。子供の頃(10歳)より盗み酒を覚え、酒代に窮して叔父の稼ぎ集めた虎の子を持ち逃げ
は、神坂が『だまってすわれば』の中で、小説として創作した部分。さらに

・運命転換のため、慈雲山瑞竜寺(鉄眼寺)に出家を願い出
と、その寺を難波に現存の「鉄眼寺」に仮託したのは神坂のアイデアである。

このように神坂の『だまってすわれば - 観相師・水野南北一代 -』は、あくまで小説に過ぎないのだが、この小説の中には、当時の上方のなりわいや、大坂商人の生きざまが活き活きと描かれていて、それはたしかに想像ではあっても、それを背景として活躍する南北の姿は、実際の南北を想像するのに、益こそあれ、決して邪魔になるものではない。わたしはそう考えている。

なお、前稿では触れなかったが、神坂が小説を書くにあたって、神坂みずから創造した架空の『南北堂剳記』の「剳記(さっき)」というのは、おそらくは、南北とほぼ同時代を生きた大塩平八郎の『洗心堂剳記』の「剳記」から借用したものなのであろう。

その一方で神坂は、埋もれていた実在の人物をこの小説に登場させ、南北の従者=門人として活躍させている。紀州の人「大藪八助」である。

大藪八助は、南北の著書『相法早引』に「大藪八助事南紀」として名が載っている。その位置は門人の筆頭である。そして同書に、大藪國義の名でもって序文を書いている人物と同一であるにちがいない。その時点において大藪は、南北の側近中の側近であったと、見做すべきなのであろう。

だが南北が最初に作った門人録には、その名は見えない。その後の消息もわからない。大藪は士分であったらしいが、そうであるからといっても門人が師に序文を寄せるというのははなしが逆であって、まったくありえないことなのだが、神坂には、むしろこういった不思議さが刺激になったのかもしれない。考証家なら敬遠しかねない事跡事情も、小説家にとっては鉱脈となるということであろうか。

そしてなにより大藪八助は紀州の人であった。神坂と同郷である。神坂が、紀州と紀州人をテーマとしつづける作家であることはよく知られる通りだ。南北は大坂の人物であり、かつ京の人物でもあるわけだが、神坂は大藪八助のことが気になって仕方がなく、それが『だまってすわれば』の執筆動機のひとつであったのかもしれない。


『江戸時代の小食主義・水野南北 修身録 を読み解く』

http://kyoto1001.blogspot.jp/2018/01/blog-post.html

2018年9月22日 若井朝彦
水野南北覚え書・神坂次郎の小説『だまってすわれば -観相師・水野南北一代-』について

2018年9月15日土曜日

水野南北覚え書・南北堂剳記について

小著である『江戸時代の小食主義・水野南北 修身録 を読み解く』には、巻末に「関係書誌」の一項を設け、南北の著作全般について、およそ6000字の解説を付けておいたのだが、『南北堂剳記』(なんぼくどうさっき)についてはまったく触れることをしなかった。


『江戸時代の小食主義・水野南北 修身録 を読み解く』

http://kyoto1001.blogspot.jp/2018/01/blog-post.html

このことについてなど、お訊ねや問合せがあったので、『南北堂剳記』やその他の書目について、しばらく補足してゆきたい。おそらくは月に数度ほどの更新になりますが、参考にしていただければ幸いに思います。

さて、ともかく『南北堂剳記』は在ることになっている。wikiにも載っている。おそらくそれをご覧になった方が問い合わせたのだろう、図書館のレファレンスデータも残っている。

レファレンス協同データベース
『南北堂剳記』の原文と翻訳の所蔵館が知りたい
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000019054

その問合せの結果は
「『南北堂剳記』は確認できず。」
である。

しかしわたしの知る限り、『南北堂剳記』についての情報は、以下の数行がある限りである。
鍵屋熊太、のち天下第一の相師(観相家)と謳われた水野南北が、晩年、みずからの数奇な半生を述懐した回想録(メモワール)『南北堂剳記』によると、五歳のころ・・・・・・
これはある小説の冒頭、本文第一ページの書き出しである。著者は神坂次郎、タイトルは『だまってすわれば -観相師・水野南北一代-』。
(初出は1987年週刊新潮への連載。引用は1991年刊の新潮文庫から)

これはいってみれば、おとぎ話では「むかしむかしあるところに・・・」が最初にあるのと同じで、神坂は小説のために架空の書物を創作し、マクラに「南北堂剳記によると・・・」と置いてから、小説水野南北伝をはじめたのである。

ではなぜこの『南北堂剳記』も架空=フィクションだと言えるのか。

この『だまってすわれば』では、他の実在の南北の著作も、むろんのこと登場する。主著といってもよい『南北相法』の正編続編、『修身録』はもちろん、発刊部数の少なかった『南北相法早引』にも触れている。井上正鐵の記録にも目を配っている。

扱いは的確で、想像力を働かせ、フィクションも交えてだが、神坂はそれぞれの成立事情についても十分考察しているといってよい。刊行年などについても、その語りの中などに的確に織り込んで話を進めている。お世辞ではなく、小説家の力技おそるべしだと思う。

ところが『南北堂剳記』に関しては冒頭に一度出てくる限りなのである。他になんの情報もない。この晩年のメモワール=『南北堂剳記』が本当なら、南北がどうしてそのメモワールを書く気になったのかを、神坂はかならずや想像、そして追求して、それを小説の骨格にしていたはずだ。しかし神坂はそうはしなかった。

そうはいっても『南北堂剳記』という存在の想定は、小説家神坂にとっては欠くべからざるものであって、そのためみずから生みだしたものなのである。そして小説というフィクションの場の冒頭に、ただ一度だけあらわれてくれればよかったのである。

著作権の関係もあって、近年では小説の場合も、参考書に関し、巻末に数頁を設けて記しておくのが通例だが、神坂の『だまってすわれば』は、本文の中に書誌情報がある程度は示されているので、そんな興が醒めるような余計な附録はつけていない。

だがもし巻末書誌があったのなら、他の書目はすべて上がっても『南北堂剳記』はそこにはなかったはずで、それがこの『南北堂剳記』というものの架空性のヒントになっていたはずだ。いってみれば、これが『南北堂剳記』ひとり歩きのはじまりだった。

しかし神坂のこの小説は、決して悪いものではなかった。『だまってすわれば』をめぐっては、次回の稿で続きを述べたいと思う。

2018年9月15日 若井朝彦
水野南北覚え書・南北堂剳記について