2016年11月18日金曜日

ロビュションと「旬」の思想

ロビュションと「旬」の思想

すこし古いはなしで恐縮だが、先月10月25日の朝のこと、テレビをつけるとチャンネルはNHKだったもので、8時すぎからの『あさイチ』がはじまったところだった。

いったい朝の番組でどんな特集をすればそんなことになるのか、どうもよく判らないのだが、おどろいたことに、その『あさイチ』にロビュション氏が登場した。

ほかでもない料理人のジョエル ロビュションである。あこがれのまなざしを向ける若い調理学校の生徒たちを前に、朝から陽気に腕前を披露して、『ジャガイモのピュレ』と、(これは新作の創作として)『ご飯のガレット・目玉焼き乗せ』(NHKの説明によると『目玉焼きを乗せたガレット』)を作ってみせた。

わたしのロビュション経験といえば、これはまったくおはなしにならないなもので、恵比寿にタイユヴァン・ロビュションが開店してすぐに、カジュアルな方の一階の「カフェ・フランセ」で牛頬肉のミジョテのランチが一度と、その数年後に(これはきちんと二階での)昼のコースが一度きりだ。

そんな20年ほども昔の経験で、とてもロビュションの料理を語る資格などないのだが、しかしその時にメインで出された仔羊の料理のお皿に添えられていた『ジャガイモのピュレ』の印象は、いまも新鮮で、とても忘れられたものではない。テレビを見て、まざまざとその口に含んだ時のおどろきがよみがえってきた。

ところで氏には著書も多い。『ロビュションの食材事典』(監修・服部幸應、翻訳・福永淑子、柴田書店1997)はそのころに購った一冊で、愛読書なのである。ロビュションに全然食べにはゆかれないけれど、写真と文で楽しみましょうというわけである。
(当時の日本には、まだバブルの名残のようなものがあって、ロビュションが日本に店を出したのもそんな流れがあったからなのだが、画集のような料理本の出版も比較的容易だった。)

テレビでしゃべっていたように軽妙で、歴史に根ざし、食材への関心感謝に満ち、信仰の裏打ちもあって、読んでいて飽きることがない。その一項目と料理の写真を紹介(引用)してみよう。
「そら豆」

東洋原産のそら豆は、父祖伝来の野菜。古代ギリシャ・ローマの時代から栽培され、聖書にも、マハナイムにいたダヴィデ王に貢がれた食べものの中に大量のそら豆があったことが記されている。

どんな料理にするにしても、そら豆は絶対に新鮮でなければ困る。見分けるこつは、簡単。莢の上からさわるだけ。中に豆が入っていることを確かめればよい。莢がふっくらとしていても中が空なことがあり、よくだまされる。

・・・(調理法など中略)・・・

偉大な食材の例にもれず、そら豆にも象徴的な意味がある。1月6日前後の日曜日に行われるカトリック教の祝日、公現祭の食事では、最後に出される菓子<ガレット・デ・ロア 王様の菓子>の中に乾燥そら豆が隠されている。これから生まれる生命、萌芽をあらわしているという。結婚式では、そら豆を神へ奉納し、こども(そら豆)を授かりますように、家族の血筋が永遠に続きますようにと祈った。春がめぐるたびに生まれるそら豆、それ自身が永遠の象徴ではないだろうか。
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この一節だけでは紹介しきれないが、ロビュションには、日本の「旬」の感覚とも似た思想が身体に備わっている。この本を手にとるたび、わたしはいつもそう思う。きっとこういうこともあって、氏は日本と相性がいいのだろう。

日本でも、たとえばアワビでもって、ロビュションと同じような語りができるのではなかろうか。神話から説き起こして、長崎俵物で輸出されたアワビ、また途中には落語の『祝熨斗』をからめもし、今年2016志摩サミットで饗された高橋忠之シェフ由来のアワビのステーキのことなどなど。

ところで氏は今度は、日本酒のフランスへ紹介と輸出に精力を傾けるようだ。ネット上のニュースでも、かなりの記事が目に入ってくる。

http://www.nikkei.com/article/DGXLASFB28H4C_Y6A021C1000000/
http://www.saga-s.co.jp/news/saga/10105/315074

「旬」といえば、普通は季節の旬のことだが、人にも物にも旬というものがある。そういった意味で、ロビュションは日本の「酒」の旬というものを見つけたのだな、とつくづく思う。(ボージョレー2016解禁の日に)

2016/11/17 若井 朝彦

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2016年10月17日月曜日

蓮舫氏問題の今後の重要性

蓮舫氏問題の今後の重要性

現在、民進党代表である蓮舫氏の問題は、早ければここ数日、遅くとも数週の内に、その本質の輪郭が、だれにとっても明瞭になるものと思われる。

そうなればそうなったで、今まで曖昧な表現で蓮舫氏擁護を続けていたいくつかのメディアも、突然「われわれはだまされていた」とうわずった声を上げるかもしれない。またしてもそんな場面に遭遇すると思うと、まったくうんざりだが。

しかしそんな大手マスコミはともかく、日本にとって肝心であるのは、その後ではないだろうか。

この問題は、最初はほんとうに小さな問題だった。政治家としての蓮舫氏一個人の問題であり、せいぜい民進党内部の問題であった。そう考えていたわたしは、

「どんな爆弾を抱えているにしても、民進党のみなさんが、蓮舫氏を代表にお選びになるのなら、それはそれで結構でしょう」

と傍観していた。

しかし蓮舫氏が、「日本にとって中国とは中華人民共和国のみ」という「一つの中国」論による弁明を突然表明した時は唖然とした。

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(上は野嶋剛氏による単独インタヴュー・2016年9月9日掲載のヤフーニュース『国籍放棄問題の渦中にある蓮舫氏』http://news.yahoo.co.jp/feature/349より引用。なおインタヴューがあったのは前日とされる。)

これは到底通用するような議論ではなかったのだが、このことによって、本来的には一個人の日本における法律上の問題を、ほとんど外交問題にしてしまった。

日本においては中華民国つまりは台湾は、法的に国として扱う必要がない旨を、台湾に一方のルーツを持つ蓮舫氏がわざわざ明言してしまった。これはやはりある種の裏切りであろう。

日本と台湾との、とりわけ民間における、デリケートではあるが良好な関係に、容易に修繕できないヒビを入れたと言っても決して大げさではないはずだ。まったく政治家としての資質にかかわる発言であった。

だがこの発言は、もし蓮舫氏が一民間人となったとしても、なかったことにできるものではないだろう。このことを根拠に今後、蓮舫氏を殉教者にしようとする集団もあらわれるかもしれない。

またすでに本人が、たとえ冗談にせよ

「私は岡田克也代表が大好きです。ただ一年半一緒にいて、ほんとにつまらない男だと思います。」
(2016年8月23日・日本外国特派員協会での発言)

と言ったように、今後、出身党である民進党を、台湾を、日本をなんと言うのか判ったものではない。

この問題は、まだまだ慎重に扱わざるを得ない。「二つの日本」というものを望んでいる国は、たしかに存在するからである。

2016/10/16 若井 朝彦

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秋

2016年10月1日土曜日

京都市〇〇〇売ります(後)

京都市〇〇〇売ります(後)

京都市〇〇〇売ります(前)」では、

1. 京都市が京都市美術館の命名権を販売すること。
2. それが入札ではなく、金額は二の次であること。
3. 前例同様、市長をはじめトップセールスが可能であるようだ、ということ。
4. 最終的に判断するのは委員会ではなく、市長をはじめ京都市だということ。

を説明したのだが、ここで研究である。もしかすると今後京都市長を目指す人も、この記事を読んでおられるかもしれない。ケーススタディーとして、上記のような4条件の場合においては、「この企業が応募してくれれば、あなたにとってあとあとが好都合」という例を二つ紹介したい。ぜひとも参考にしていただければと思う。

なお見出しは、ケーススタディーの想定上のこととして、命名権売却後の仮の名称を使っている。

大礼記念京都美術館銘
(「京都市美術館」は当初、昭和天皇ご即位ゆかりの「大礼記念京都美術館」であった。上はその来歴を示す銘板)

・想定その1 京都市JR東海美術館

現在京都市は、JR西日本とすこぶるよい関係を保っている。同社の京都の目玉である「京都交通博物館」、その今春のオープンに際しては、市長みずから率先して宣伝役を勤めた。

このJR西の立場に対して、同じ鉄道でも、阪急、JR東海と京都市とは、そういう良好な関係にあるようにはとても見えない。とくにJR西と対峙する阪急に対しては、中心部の不動産開発について、京都市がダイレクトに要望書を送りつける例さえある。

また「京都商工会議所」の「観光・運輸部会」、「京都市観光協会」ともなると、人事においてもJR西の優位が通例だ。そんな事情もあって、観光において奈良に南進気味のJR東海も、やはり京都の市内の文化施設に橋頭堡を作りたいのではあるまいか。

また京都市、京都府、会議所にとって、(なにをいまさらだが)リニアの京都誘致は市是であり府是であり所是となってしまっている。JR東海の引き入れに成功すると、(リニアが本当に来るかどうかは別としても)与党の支持は暫時高まる。市議会は与野党総じて美術館の命名権には反対しているが、その議会対策に極めて有効である。

けれども現在、そのJR東海と、京都市京都府とのリニアのパイプは、ほぼ閉止状態。かつてはJR東海の初代社長であった須田寛氏との接点もあったのだが、ある時ひどく怒らせてしまった。しかしである、須田氏は京都市出身であるだけでなく、画家須田国太郎氏の子息であって、(現在の名称)京都市美術館はその須田国太郎の優品を多く有している。現に4年前には須田国太郎の回顧展もここで行っている。話のいい接ぎ穂はあるのだ。

JR東海が本気になれば、50億は安いものであろう。もしこの企業が本命であるのであれば、予定価格を、倍の100億ほどにしておいた方が無難かもしれない。他社参入の阻害のためである。ただ問題は、JR東海がリニア蒸し返しを嫌った場合であろうか。

これは相手次第の案件ではある。しかしもしあなたが市長の立場にあるとすれば、アプローチするだけの値打ちは十分にある。

もっともJR東海は、近日取沙汰されている、二条城の天守復元計画の方に関心があるかもしれない。その命名権とともに、優先利用権も併せて獲得できれば、その方がJR東海にとっては申し分なしであろう。

・想定その2 京都市オムロンミュージアム

現在3期目の京都市長は、政党人からの支持が強いとはいえない。伊吹文明衆議院議員は2016年年初の市長選挙でのこと、街頭での応援演説の際、市長である候補者の隣に立って

「いまの市長は、もっと市民の意見を聞かなくてはいけません。しかし対立候補が当選してよいものでしょうか」

といった風に話をはじめるといったありさまである。しかし京都商工会議所幹部は、現市長の応援には熱心だ。ばらばらになりがちな与党の結着剤のようなところがある。いずれの都市であってもそうだろうが、商工会議所の影響力は侮れない。その京都商工会議所の現会頭が立石義雄氏。

立石会頭は、オムロン(元は立石電機)の第二世代。創業者の子息である。同じ電機関係といってもオムロンは、京都会館の命名権を購入したロームの倍の規模はある会社である。

京都では、ほどほどの会社でも、画家を援助応援したりするところはある。だが、会社の大きさの割りには、オムロンからはそのような話はあまり聞えてこない。しかしここで美術館に50億出すとなると、状況は一気に改善される。募集するあなたにとっては「売り手よし」、オムロンにとっては「買い手よし」であるはずだ。

ただこのケースで想定される難点は、オムロンがこの50億に価値を見出してくれるかどうかだ。もっとも「京都会館・ローム」の場合のように、今回も内々で商談が可能な状況が確保できているのであれば、打診や勧誘や応募要項の調整は、いたって楽なはずであろう。

けれどもオムロンが一旦に応募するとなれば、むしろ「ロームが京都会館に50億だったのに、我が社も同額の50億でよいのか」ということになるだろう。そこはすこしは色をつけて60億でどうだろう。しかしそれだけでもまださびしいので、要項にもあらかじめ書かれていたように「50年内」の「内」を活用し、期間を短縮して30年。1年あたりでは2億ということにしておいて、年間あたりの単価はロームの倍。このあたりで手を打てれば、会社の体面も保てて上首尾であろう。

やや膨らんだ支払いに関しては、これも都合よく募集要項4の(3)にあるように
(支払いは、平成29年度末までの一括納付を希望しますが、リニューアルオープンまでの間での分割納付を希望される場合は別途協議します。)
を適用すればよろしい。

ただ、オムロンのカタカナが名称をゴツゴツとさせるかもしれない。よく知られていることだが、このオムロンというのは、京都の地名、御室(おむろ)から採ってきたものではある。しかしここは創業家の名前をもらって

 京都市 立石美術館

でどうだろう(「京都市立 石 美術館」ではない。念のため)。字面はそれなりに落ち着いている。京セラと稲盛財団との関係のように、オムロン側も立石財団を設立して(既存の法人があればそれを活用して)、地域貢献、文化貢献も併せて唱えば、募集要項の「配点表」に落し込んで、ハイスコアはむろん、オムロンは満点だって射程圏だ。
総合審査
(募集要項より「総合審査」とその配点表)

もっともオムロンは、計画策定が進行中の京都市役所の本館改修、新館増設の方の命名権とシステム導入にむしろ興味があるかもしれない。そちらの方がはるかに実利になるからである。

・・・(以上でケーススタディーは終り)・・・

しかしこうやって2社を検討してみたわけだが、今般の「京都市美術館」の命名権販売の募集要項というものは、表向きは淡彩に見えていながら、これまでの京都市の色々な来歴というか、伏線というか、かなりの着色がある。とくに「配点表」からは、知恵でもって練り上げられたような物語が感じられるのが不思議だ。

さて、本日9月30日が、(この記事の想定の方ではなくて)本物の方の応募締切であった。実際には、どのような企業がどういった内容で応募したのであろう。

2016/09/30 若井 朝彦

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2016年9月21日水曜日

京都市〇〇〇売ります(前)

京都市〇〇〇売ります(前)

京都市は「京都市美術館」の命名権売却を決定して、本年2016年9月30日まで購入希望の法人を募っている。その要項によれば売却期間は50年以内、金額は50億円メドとのことである。その他条件として、かんむりに「京都市」を残すことなど。おおむね「京都市〇〇〇美術館」いうことになろう。

京都市美術館案内板

しかしなんとも長いはなしだ。たとえば売却責任者の門川大作市長が現在65歳であるから、50年後は115歳。京都市には現在20代の市議もいるのだが、50年後には70代である。その昔、京都市で何があったからこうなったのかを、2070年前後にきちんと説明できる人が、その時どれだけいるだろう。未来へのツケ回しなどではない、とはとても言えたものではない。

ところで、この50億50年の想定は、2011年に契約を締結した「京都会館」の命名権売却を参考にしていると言う。

場所が同じ岡崎地区の事だから50億とか言う。数的な算定基準もなく、説得力のない説明が当局からあるばかりだ。ところでその京都会館の命名権の売却では、買い上げは京都の企業、ロームであった。(正確には52.5億)

それは公募によるものではなかった。それどころか、具体的な命名権販売の予告も、その想定すら公表されてはいなかった。いきなりの50年。そしてこれは市側も認めたことだが、秘密交渉によるものであった。詳しい経緯は今も分からないが、トップ級の商談があったことは、市議会の答弁からしても確実だ。

命名権の売却は、地方自治法でいう財産の処分には該当しない、したがって議会承認は不要だという。そのため市の幹部は、約半年の間、交渉の途中経過を、議会与党にも一切相談しなかった。突然の発表を新聞で知った与党自民党の議員は、議会の委員会で市の当局者に怒りをぶつけたのものである。

しかし京都市はともかく、ロームへの風当たりは穏やかだった。「ローム・ミュージック・ファウンデーション」でどれだけ有望な新人を支援してきたかを知っている関西の好楽家は、わたしもそうだが、このことのためにロームを睨むということはしなかったはずだ。ロームの援助を受けた者は、プロフィールにその経歴をよろこんで記す。現在、京都市交響楽団のコンサートマスター、泉原隆志氏もその一人である。

さて、はなしを美術館にもどす。京都市も前回に懲りてか、今回はさすがに公募の形式を採ってはいる。とはいえ、「京都会館」の売却の際と同様に、たとえば京都市長のトップセールス、担当者と応募企業との接触などは禁じられてはいないようである。要項(正式には『京都市美術館ネーミングライツパートナー企業募集要項』)を読む限りはそうだ。

『京都市美術館ネーミングライツパートナー企業募集要項』のpdfファイルは、以下から取得が可能。
【広報資料】京都市美術館ネーミングライツパートナー企業の募集について
http://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000204820.html

総合審査
(要項より「総合審査」とその表)

選定方法
(要項より「選定方法」等)

やれ公募だ、それ選考に関与する委員会を作って評価だ採点だ、といっても入札があるわけでなし、もし破格の高額を提示したところで、募集要項の「表」にある通り、その配点比率は異様に低い。それに引き換え、名づけの企業についてはヤケにうるさい。

委員会の審査結果に関しても、その公表は、「応募企業名、第一候補の提案内容、全体講評」程度の扱いで済ますつもりらしい。要項の限りでは、委員会の採点や発言が公開されるとは、まったく読めない。「京都会館」の時と事情はほとんど変わっていない。

市が説明するように、市民負担を軽減しなくては、という目的が第一にあるのだとすれば、入札が最善の方法である。これはだれにでもわかる話であろう。透明性も高い。

近年、児童の虐待が問題になることが多いとはいえ、子供の名づけに関していえば、公権力は余程のことがないかぎり介入しない。基本的に性善説に立っている。それと同様で、数十億の出費をする者が、京都市に迷惑をかけるような名前を付ける(またその反動でみずからの価値を毀損する)かもしれないと考えるのは、やはり変であるし、なにより応募者に失礼というものであろう。

だいたい「京都市」の施設に企業名が入ることで、ある程度、名前が珍妙な物になるのは命名権売却の前提であって、「どの名前にすれば傷が軽いか」ということで気に病んだり、名前次第では値段は低くてもよい、というのであれば、もともと売るだけの理由があったのか、と疑った方がよい。

そもそも50億ですべてが解決するのではなく、新館建設と本館改修で(現段階の概算ですでに)100億のプロジェクトでなのである。50+50。(ちなみに「京都会館」ではローム約50:京都市約40の予定が、ローム約50:京都市約60に膨らんだ。)市民負担を避けるために名前を売る。しかし本館が古いままでは名前は売れない。名前を売るためには、派手な施設にせねばならず、そのためには市民負担が50億必要ということだとすると、まったくケッタイな堂々めぐりである。

この特異な募集要項を通じて京都市は、「京都会館」の命名権売却の場合とほぼ同様に

「金額ではありません。売りたい相手があるから売るのです」

と宣言しているようにさえわたしには見える。

(しかしこれが東京都での出来事であったなら、今頃、この案件、どれだけテレビ新聞雑誌に露出していることだろう。いや、いまさら「既存メディア」でもないか。)

・・・以下は月末の「京都市〇〇〇売ります(後)」に続きます。その(後)では、「もしこの企業が美術館命名権に応募したら」といった視点で、種々考えてみたいと思います。

(2016年9月30日夕・補)
さきほど応募も締切となりました。それにあわせて
京都市〇〇〇売ります(後)
をアップしました。

2016/09/20 若井 朝彦

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2016年9月20日火曜日

蕪村二つの顔と展示二つ

蕪村二つの顔と展示二つ

春のことだったが、このアゴラに若冲について書かせていただいた。生誕300年記念の展示などでの、ひと騒動からはなしをはじめてすこし語ってみたのだったが、これが同じ生誕300年でも、蕪村の周囲は実に落ち着いたものだ。

落ち着いているどころか、伊丹市の柿衛文庫にしても、天理市の天理大学図書館にしても、昨年2015年の秋の内に、蕪村のしっかりとした展示や、研究成果の公表を早々と済ませていて、実際の300年祭の本年は、各自、静かに迎えましょうという申し合わせでもあったのか、といった状況だ。
(もちろんそんな申し合わせはありません。でも蕪村ファンは、むしろこういった様子に納得しているかもしれません。)

2000年以前の状況であれば、確実に蕪村イヤーとなったはずの今年、若干とはいえ、京都でも、蕪村の優れた展示があるので、その二つをご紹介したいと思う。


その1 京都国立博物館

さきに京博を持ってきたのにはわけがある。館長の佐々木丞平氏は、江戸絵画が専門で、なかんずく応挙、そして蕪村にも責任をもって取り組んでこられた方。世が世であれば、蕪村の大回顧展をこの京博で開催していたことはまちがいないところだ。

今回の展示では特別陳列ということで、自館所蔵のものを中心に十数点のみ。名前の通ったものでは

『奥の細道図巻』

だろうか。ただ、俳諧宗匠としての蕪村のものがまったくない。これはさすがに寂しい。蕪村の書簡や刊本を借りてくる、または所蔵の参考資料などから展示することは、決してむつかしいことではなかった思うだけに、やや残念である。

文人蕪村の足跡ということであれば、同じ京博で2010年にあった「没後200年記念・上田秋成展」が秀逸で、蕪村にも多くの場所を割いており、それはそれだけで「画人俳人としての蕪村展」、といった趣であった。言いにくいことではあるが、その2010年の蕪村の展示の方が、今回2016年の蕪村の展示よりもずっと迫力があった。

2010年は、同時代の画家の業績も大々的に集められていて、竹田、大雅、若冲はかなりのものが出ていたし、また始興もよかった。佐々木館長渾身の企画だったのであろう。(ポスターとチケットにしてからが、応挙の画が大きく刷られていたくらいだった。これが本当に「秋成展」? というほど。)

数年の内にもこういう企画がなされて、蕪村にも、また数多の江戸の文人画人にも、あらためて注目が集まることを期待したいものだ。
(こちらの蕪村展は、もうすぐ期末なのでご注意下さい。)
京都国立博物館


2.角屋もてなしの美術館

この美術館は、春と秋の期間を決めて開館。蕪村の『紅白梅図屏風』『紅白梅図襖』を所有するが、館の宝だけあって、いつもいつも出される、といったものではない。しかし300年の今年は、この梅が期間を区切って交互に展示されている。じつはわたしはこの展示をしばらく待っていたのである。すでに春季に三度訪れている。

ほの灯り 蕪村がむめに 眼をあらふ  立立

もちろんこの梅もすばらしいのだが、この角屋は、かつての京の俳諧連中の拠り所でもあった。ここに残された、種々の手筆などによって、その俳人たちの交遊の拡がりを示す。小さいものがほとんどだが、深み厚みの感じられる展示である。

展示は展示室で行われているのだが、重文である角屋の建物そのものにも上がることができる。蕪村の展示に、月居の『庭松四季句扇面』も出ていたが、これはこの角屋の庭を称えたものだ。そこにしたためられてあった

蓬莱の 松や居ながら 庭ながら  月居

から読み取れるような風情は、その揚屋の奥の庭に、今もしっかり残っていると言える。
角屋の夜

(さて、以上が両館の紹介ですが、全国の皆さん、とくに春の若冲展に並んだ猛者の皆さん、9月下旬の京都はまだ空いている方ですから、ふらっと新幹線に乗るなどしてお越しになり、午前には、京都駅から東に1.5kmほどの国立博物館を訪れ、その後どこかでお昼などして、午後はそこから西に3kmほどの角屋に回り、夕暮れ時にまた新幹線でふらっと日帰りなどいかがでしょう。若冲とは180度ちがった筆致ではありますが、それなりの感興があるかもしれません。とくに提灯を持つというわけでもありませんが、今年が若冲ばかりではもったいないな、と思い、すこし宣伝をさせていただきました。しかしこのプランで稼ぎらしい稼ぎになるのは、博物館と美術館ではなくて、JR東海だけですね。)

2016/09/17 若井 朝彦

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2016年9月12日月曜日

ストビュー撮影車との遭遇

もう先週のことになる。金曜の夕方だった。市街を移動中のこと、風変わりな車が目に入った。パーキングに停まっている。興味を持って、こちらも停止した。

ストビューの撮影車なのである。しかし車体にはかなり傷がある。現役の、本物の撮影車なのだろうか。狭い道に入り込んで撮影するとなると、車体も傷むのだろうな、とは思うものの、それにしても傷だらけである。そしてけっこう古傷だ。サビが深い。昨日今日の京都の狭い路地の撮影で付いたものではない。

カメラは低位置に下げられていてカバーがかかっているし、だれも乗っていない。挨拶も質問も世間話もぜんぜんできない。残念であったが、しかし撮影中の車であったら、こちらの姿も画像として取り込まれていたかもしれない。あまりいい感じはしなかったはずだ。駐車中でちょうどよかったのである。たぶん月曜までここで週末の休息なのだろう。

そういうわけで、当方もこの車を、とくに断りを入れることもなく、公道から何枚か撮影。

ストヴュー車

ストビュー自体、プライバシーの問題で訴訟などになって、写り込みの車のナンバーについてはボカすことになっているくらいだから、この写真でも消しておいた方が無難じゃないのか、というまったく弱気で消極的な理由でナンバーは消すことにしたが、しかし単純に消すだけでは芸がない。車体塗装とおんなじ地図模様の仕様で、つたない塗り絵にして遊ばせてもらった。

だがwikiを見ると、堂々とナンバーが写った画像を出している。wikiの車は成田ナンバーである。この車も同じ成田だった。京都のだれかが、塗装もそのまま、カメラ付きの中古を買った、というものではやはりないようだ。現役の車なのであろう。

このように好奇心があって近寄ってみたわけだが、じゃあストビューに魅力があるかというと、これがまったくなのである。今日すぐになくなっても、わたしは困らない。

日頃から、いずれ日刊新聞は絶滅するぞ、などということをつぶやいていながら、しかし明日、急に新聞がなくなったら困るのである。それはWEB版というものが、今よりも充実していたとしてもやはり困るのであって、わたしにとっては、紙の新聞がなくなると、情報の反芻に困難を来たして、一日の生活が乱れてしまうと予想されるのだ。もっとももしそれが現実となってみると、おそらく数日の内に慣れてしまうだろうが、いま現在のわたしに抵抗感があるのはたしかだ。

しかしストビューは、今日すぐになくなっても、わたしは困らない。ストビューなるものが登場した時は、そんなものがあるのかと驚き、この先、ネットで何年も退屈することはないだろうなと感嘆したというか、ほとんど熱狂したものであったが、すぐにも冷めてしまった。

たしか2008年、鎌倉のやや込み入ったところに行くのに、ストビューで下調べしてから行ったのだが、結局は地図ほどは役に立たないのである。以後はほとんど使わない。今回すこし触ってみたが、将来、使い勝手が格段によくなっても使わないと思う。

ストビューを有効に、そして猛烈に使っておられる方も多いはずだ。しかし普段の会話で、ストビューがどうした、どう使ったなどという内容になることはまったくといっていいほどない。

ストビュー・カーの車体の傷もこのあたりの事情を物語っているのではあるまいか。傷がつくのも仕事の内、というような撮影作業なのだろうが、IT(この言葉がすでに古い)界隈の花形であれば、やはりバリッとした車を走らせているはずだろう。

しかしストビューに限らず、新しい電脳のシステムがどんどん古くなるのは、より新しいものが古いものを呑み込んでゆくからなのか、それとも人間の飽き性がそれほどまでに強いのか。またその一方で、もちろん人間には執念深い面もあって、これが国家単位に準ずるまでにもまとまると、それはそれで著しく統御がむずかしくなるのだが。

このようにいろんな断想が浮かんでは消えたストビュー撮影車との遭遇であったのだが、最後にまだ付け加えるならば、(新聞はともかくとしても)印刷による地図、書籍という古典的な情報伝達の形式は、まだまだ電脳の骨格であることは確かで、電脳の内部に取り込まれても意外としぶとく形を守り、電脳の外でも、そう簡単にヘタりそうにはない、ということである。

2016/09/11
若井 朝彦・ストビュー撮影車との遭遇

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2016年8月15日月曜日

戦時下日本と欧州情報

戦時下日本と欧州情報

わたしの父は先の戦争で従軍している。陸軍であった。学徒出陣で出征し、士官候補試験を受け(受けさせられ)、朝鮮半島で輸送隊の小隊長をして、馬に乗っていたという。引き上げ後はしばらく博多で、復員事務に従事したということだ。最前線に出てはいない。

またわたしには叔父が4人いるのだが、この4人の内、3人が従軍している。いずれも陸軍で、その内、戦後捕虜となり、シベリアに抑留された者が2人。シベリア抑留といっても、その内1人はウクライナまで移動させられていた。ドイツ人の捕虜のこともよく知っていたし、ヨーロッパ・ロシアの見聞があることから、帰還後、東京のGHQ(実際のところ米軍)に招かれて、現地事情を訊ねられたということだ。

父の世代のこの5人の男も、いまはすべて他界してしまって、当時のことをもう訊ねる術もないのだが、それでも聞き取るべきことは聞き取ったような気がする。

しかしわたしは、父からよりもむしろ叔父からさまざまな話を聞いたように思う。父とはほとんど毎日顔を合わせているわけだが、叔父となると一年に数度といった具合である。だから深刻なことでも、すこしは気楽に話題にできたのだろう。

そんな叔父たちの中で、とくに興味を持って話を聞いた叔父がいる。

その叔父は1923年生。招集を受け、陸軍に入隊して千葉の戦車学校で訓練を受けていた。しかしある時、特務機関の選抜試験に出向かされる。

面接試験で、

趣味は何か、好きなものは何か

と問われて、自動車の運転であること告げると、それをここでやってみろ、と言われたらしい。エア・ドライブである。また天皇に反したことばが言えるか、といったことも試されたらしい。誘導面接、逆圧迫面接とでも言えばよいのか。

このあたりで大抵の者はアタマに血が昇って席を立つということだが、叔父はそれなりに遣りすごしたようであって、その結果、終戦間際までこの機関で教育を受けて、1945年の8月には、配属配置を待っていたらしい。

しかしこの叔父は、父やほかの叔父たちとはちがって、真っ先に帰郷していた。実家に帰ってきたのは8月14日であるという。だとすると前日の13日には除隊になっていたはずである。これは本人から聞いたのではないが、その家族によると、実家の庭で、その14日の内にもいろいろと焼却していたという。もっともこれは軍機に触れるものではなくて、おそらく当人の身分に関わるものであったろう。

もしかしたら含みを残した解散であったのではないか、とも思うのだが、この焼却のことからしても、すくなくとも当時の国内にいた関係者は、足跡をきれいに消して、ひとまず次の時代を生きようとしたようである。

その叔父が70才を過ぎたころ、ちょっと話になった。

「やっぱりね、知らされてなかったんだよ」

そう叔父は言ったのだった。それはたしかにそうだろう。しかしそれだけでもあるまい。そう思って、たまたま手に入れていた朝日新聞の縮刷版を見てもらったのである。昭和19年7月の一冊である。もともと紙質が悪い上に、保存も悪く、経年劣化が著しくてボロボロである。

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だが内容となると、まさにサイパンが落ち、東条内閣が倒れた月のものである。来るべき空襲に関しても詳細である。叔父は10分ほどもページを繰っていただろうか、静かにこう言ったのだった。

「みんな書いてあったんだねえ」

この静かな口調を、わたしは今でもなかなか忘れられない。

たしかに日本の戦況に関しては、誇大であり、嘘スレスレ、また真実とは言いがたい記事は多い。一通りのことは書いてはあるが、それはなにもかもではもちろんない。だが西ヨーロッパ戦線やドイツ・ロシア戦線となると、その質は今の新聞の外報と大きな違いが見られない。地図も豊富だ。これは想像も含めてのことだが、当時の新聞編集では、自国のニュースが窮屈な分だけ、ヨーロッパの戦況を仔細に紹介したのではあるまいか。またそのヨーロッパの運命に、日本の将来を暗示しようとする意図もあったのではなかろうか。

これは叔父には見せなかったが、今も手許にある

大場 弥平 著 『第二次世界大戦前史』 (弘学社・1944年8月)
赤神 良譲 著 『独ソ戦争史』 (国際反共聯盟・1943年12月)

などを見れば、当時の日本において、ヨーロッパのニュースは決して不足していたわけではなかったのである。知ろうとすれば、かなりのことはできた。朝日新聞にしても、ドイツのV‐1爆弾に関しては、やけに詳しい。

戦争によって分断されていたとはいえ、外信ニュースの出所はあった。ドイツ・ロシア戦線ではベルリンとモスクワの双方。また中立国としてのスイス、スエーデン。とくにイギリス・アメリカの動向となると、ポルトガル・リスボン発の有力な外電が存在した。

ポルトガルは中立国であっただけでなくその位置関係から、ロンドンの新聞が空輸されており、発行のその日の内に届いていたのである。こういった意味からも、当時のリスボンというところはスリリングなところだったようだ。

これはポルトガルのお隣の中立国スペインでのスパイ合戦のはなしだが、このアゴラでも矢澤豊さんが

(2015年06月18日)

という、興味深い記事をアップされておられる。これと同様に、リスボンの外交官の仕事も気の抜けないものであったろう。

リスボンからは同盟通信の電信が送られる。公使館からは外務省へ、また陸海の武官が陸軍へと海軍へと、英米情報を送っていたのである。

ここからは疑問である。

1945年の5月、ドイツが連合国に降伏してから、在ポルトガル・リスボン公使館の最大の関心事は、連合国のドイツ処分であったにちがいない。武装解除、戦犯の処分、占領軍政と統治形態。

日本はリスボンにかろうじて耳を持っていた。ポツダム宣言受諾まで、外務省、陸軍、海軍は、これをどう活かしたのだろうか、それとも活きることはなかったのだろうか。終戦史というと、東京での一連の動きか(今夜のテレビでも映画が放送される)、スエーデン工作がよく取り上げられるが、リスボン情報はどうであったのだろう。リスボンを通じて得られた英米の(東部と比較して)寛大な占領政策は、以後6月、7月と、かなり終戦を後押ししたのではないかとわたしは想像している。また英米も、このラインを有効に使っていたのではと思うのだが。

そしてもうひとつ、現代の日本に関する疑問も加えておこう。これも終戦工作に似ているかもしれない。

陸軍には陸軍で、戦争の終結を模索するセクションがあり、それは少数派ではあったけれども懸命に活動していたということが最近は伝えられている。

それと同様に、今の日銀であり財務省にも、レンテンマルクに至るドイツ、ペンゲーからフォリントに至るハンガリーなどの事例を検討したり、独自に現代の何らかの情報を収集するといった、主流とはすぐにはなり得ないセクションがあるのであろうか。戦争末期の大蔵省には、戦後の通貨体制に対する系統的な予備研究はあったはずだが。

そういう人たちがいて、しかし自分たちには出番のないことを願いながら、それでも結構陽気に仕事をしてくれているようだったら、わたしとしては心強いのだが、実際はどうなのであろう。

2016/08/14 若井 朝彦

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